愛媛公演レビュー

 

・四国の演劇情報をもっとも網羅している舞台情報blog 「かんげき☆あんない」管理人、秦元樹さん

・上演をさせていただいた愛媛の劇場、シアターねこ 鈴木美恵子さん

ゴーチ・ブラザーズ、アーツカウンシル東京(調査員)を経て、現在は高知を拠点にプロデューサー/リサーチャーとして活動されている斎藤努さん

 

 

 からレビューをいただきました。 ご寄稿いただいたお三方に、この場を借りてお礼申し上げます。

 

 

 

 

 

(以下、ネタバレを含みます。ご観劇前の方はご注意ください。)

 

ネタバレを最小限にした、愛媛公演アンケートを抜粋したページはコチラ >>

 

 


反復し、続いていく革命の歴史。

秦元樹

 福岡から、演劇ユニットそめごころ、と言う若手劇団が来ると聞いて、シアターねこに観劇に。

 その前に所用があり、若干疲れが残った状態で観劇するようになったんだけど、「あれ、なんか目の前で起こっていることって実はかなり凄いモノなんじゃないか?今のコンディションで観ているのって凄いもったいないことをしているんじゃないか?」と感じて、もう一度観劇。

 2回目と言うことで、自分自身に新鮮さが薄れてしまったのか、1回目観た時ほどの衝撃は無かったのだけど、その分、お話しのシーンや、言葉を拾っていく。

 

 少女との儚い、美しいシーンと、過去の事件をモチーフにした救出作戦の重いシーンが、劇場の中で反復されていく。

そのシーンを、"リハーサル"と言う名目で、停止、再生し中に浮かし、劇中の世界と、現実の世界の境目を曖昧にする。

 

 床に描かれた、絵の演出が、凄く面白く印象的でした。

 同じ四角の絵なのに、私が描き、聴き、見ている素晴らしい世界だったり、閉じ込めた囲いになったり。同じ一本の線が現在と過去のはざまになり、外の世界へ通じる扉になり、私の世界が壊れていくヒビになったり。

 ラストの革命、世界の混乱のように観える、舞台上に描かれた絵も印象的。

 

 作品が、自分の中で形作られていくのはむしろ公演を観終わって、家に帰ってからで。

 印象に残った、言葉、シーンを頭の中で反復する度に、作中でモチーフにされた事件以外の事柄にも、イメージが繋がっていく。

 テロ、シールズ、国のこと等、近年の革命に通じる事柄に繋がり、

 盲目の少女、演出家と言った登場人物たちが、革命の首謀者、賛同者、それを見ている人、気づかない(ふりをしている)同じ時代を生きる人たちに繋がっていく。

 イメージが繋がっていくうちに、これは昔の事件モチーフの話だけでなく、現代まで変わらず繰り返されてしまっている革命、争いがモチーフの話なんだと思えてくる。(リハーサルとして、シーンが止まったり再開したりするのも、現実世界にリンクするために生きてくる演出だなと思う。)

 

 本当に反復する度に観えるものが何通りも出てくるので、創り手達はどこまで計算して、仕組んでいるんだろううと思って少し恐ろしくなる(笑)。

 面白い、よりも凄い、の比率が高い、良い作品でした。

 東京、福岡と公演で、作品がたくさんの方の感性に触れていくことを願います!



反復する、イクツカノ時間と、交わる、イクツモノ時間の中で、僕等にできる、イクツカノこと。

シアターねこ 鈴木美恵子

 

 素敵な作品との出会いに感謝です。

 

 劇場ならではの舞台美術、この作品が大好きな役者、観客を求める一途な思い、作品作りへのクールさ、舞台づくりを厭わない真摯さ、仲間に対する自覚、物言う術の拙さ、人間を描く演劇本来の希望・・・etc  枚挙に暇がないほどに浮かんできます。

 それらが相互に作用しての舞台でした。決して偶然から生まれた作品ではなく、作者やメンバーの必然から生まれた作品だと確信します。若さゆえの稚拙ささえも、魅力と見えてしまい、これが企みであるなら・・・まんまと嵌められました。

 

 劇場に一歩入ると、そこは全面の開帳場、客席は程よく隣の座席との距離を取り点在させる。観客が少ないと踏んでの工夫かと、うがった見方をしたわが身を恥じたほどに、配置の妙が効果的に、居心地よく舞台に集中できる構造を生み出していた。

 客席中央にぼんやりと灯りの入った演出家席、そこも微妙に客席との距離を取る。この距離感は、作品の世界にも取り入れられ、同じように効果的にはたらく構造となっている。舞台に役者が登場し、最後まで何度も繰り返されるセリフが印象的で、最初は思わず噴き出したが、それが徐々に、繰り返される度に真剣に聞き入り、意味を探ろうとする自分を発見。

 一見恣意的ともみられるセリフは意図的に構成され、文字としての言葉だけに頼らない、五感を意識した口語の数々は、私の想像力を刺激し、浅間山荘事件をベースとした物語世界に誘い込む。

 

 感覚的な言葉から、音を見ようとして目を瞑る少女と、今を生きる少年、言葉と沈黙、設定は非常に抒情的で、ややもすればそれらに流され、同化しそうになるが、随所に仕掛けられた行為により、冷静へと引き戻される、異化効果の手法で熱を冷ましていく。

 作:演出の石田聖也は、どこでこのような技術を学んだのか・・・美しい世界を見ることを希求するが故に沈黙の世界を生きる少女を演じる、せとよしのも、精神的な両義性を秘め魅力的。時々狂気の光を宿す目を持つ君島史哉も良い、彼は役者であり舞監を務め叩きもこなす、貴重な存在。

 田島宏人も存在としてのリアリティをクールに演じる。照明家もブルーの灯りを駆使して、ドビュッシーの「月の光」を見事に見せてくれた。

 

 

 まだまだ私はこの戯曲を汲み尽くせていないと思う。凡庸な理解など許さないかのように、遠いところにこの作品は存在していて、やはりここでも距離感を見せつけられる。それが心地よいのではあるが。

 

 世界は本来美しく、しっかり眸を開けて見るに値するもののはずで、そのように神は作り給うたのだから。私は薄目を開けて見るのではなく、しっかりとこの世界を見据えたいと願う。



「反復する、イクツカノ時間と、交わる、イクツモノ時間の中で、僕等にできる、イクツカノこと。」

斎藤 努

 

 2016年1月末、愛媛のシアターねこで僕はこの作品を観劇する。正直、観終わった後に混乱した。

 

「これは作品と呼んでいいのだろうか?」

「果たして一般の方が観て楽しめるものなのだろうか?」

 

 という職業病にも近い感覚でこの作品のあり、なしを考えてしまった…

 ゆえに、最初に線引きをした上でこの作品について記したいと思う。

 

 まずは演劇関係者として考えると、この作品の表現手法は秀逸だ。語弊を恐れずに言うと(フォーカスしている部分は異なるが)チェルフィッチュ「三月の5日間」くらい筆者の中にある舞台の常識を覆す表現手法であった。

 

 そめごころ「反復する、イクツカノ時間と、交わる、イクツモノ時間の中で、僕等にできる、イクツカノこと。」は様々なことに疑いを持っている。劇場空間、演じること、観られること、創作過程、上演するということ…普通なら何も考えずに通過する演劇の最初のルールを疑い、劇空間の入り口を歪めた上で、作品を表現している。

 例えてみると、野球はボールをバットで打つ競技である、という大前提を疑い、ボールをバットで打つことを検証し、もしかしたらバットをボールで打てるのでは?という突拍子も無いことに真摯に向き合っている感覚である。結成3年目、平均年齢23歳、福岡を拠点に活動する団体がこのような表現手法を獲得したことに純粋に驚きと尊敬という思いを持った。

 

 他の作品を観たことがないので、正直この手法が突発的なものなのか、常にこういう視点で創作をしているのかわからないが、この作品においてこのような表現手法を用いたことは評価に値すると感じている。

 さらに制作観点からも素晴らしい(ある意味恐ろしい)と感じたのが、公演(開場時間、開演時間など)そのものが作品に準じていることである。確かに公演そのものも常に反復を繰り返しているのである。が、そのことに着目し、作品内容に組み込んだものは非常に珍しいのではないだろうか?

 

 また作品内容も閉ざされた空間との交信を主軸に置きつつ、浅間山荘事件の人質救出劇を反復しながら、脚本家の過去の記憶、舞台と観客、創作過程と上演、劇場と日常やベルリンの壁、またパリでの劇場におけるテロ行為まで様々な閉ざされた空間が展開されていく。実験劇という体裁を取りつつも、作品のテーマと実験的な表現手法による相乗効果があり、全体的に好感が持てる。

 

 翻って、この作品を一般客の視点で検証してみる。演劇のルールを疑い、その検証による実験劇であるので、ルールすらよく知らない観客にとっては面白みすら理解できないのではないだろうか?野球のルールを全く知らない観客が野球のルールの隙間を巧みについたファインプレイをしても、わからない人からすると何がすごいのか一切理解できないのと同じで。

 

 また作品内容そのものは一般性があり、共感するところもあるが、物語としてのクオリティは高いとは言い難い。キャストに関しては20代のナチュラルな演技体や躍動感あふれる身体性は素晴らしいが、緊迫するシーンなど技術力が求められる部分では物足りなさを感じた。

 

 以上を踏まえて、この作品について語る場合は、どういう観客を対象に話をするかによって言葉を選んでしまう。そういう意味でも、舞台芸術の関係者にはぜひ観劇していただき、さらに深い議論を展開していただき、自分自身その議論をさらに深めていきたいという欲求が大きい。

 またそめごころの方々は今後もこの創作スタイルを大事にし、さらに素晴らしい作品を産み落としてもらいたい。同時にこのようなアーティストが生まれてくる土壌を形成した福岡という場所、関係者には敬意を表したい。今後も福岡の演劇シーンは注目しなければと改めて感じた観劇体験だった。